今日はグッゲンハイムでアーニッシュ・カプーアを見る。

技術に惹き付けられることもさることながら、それが存在することで存在させられる別の存在について作品と同じ空間に佇みながらひたすら感じる。
最近コミュニティについて、それらが理想を追い求めればもとめるほど、それが閉じることは必然なのかずっと考えている。
自己と他者、コミュニティの内側と外側(はたしてそんなことが実際にあるのかどうかもわからないけれど)そう云うことについて当て嵌めながら、ただただ佇んでしまった。
此岸と彼岸、内側と外側、隔てられるということ、内に秘めるものを蓄え、その外側を持つということ。
決して向こう側には、そして内側には通じる径がなくとも、それを感じる想像力を持つこと。
それらは果たしてリアリティと呼べるのだろうか?
なんだか今日はそう云う日だったらしい。
そして帰り道ふとかっこいい教会のまえで自転車をとめてしまう。


15時から17時まで珈琲タイム、どうぞご自由にってかいているっぽい...

そして扉がひらいていたので....

なかに入ってみた。

そして珈琲と美味しいケーキを頂きながら折り紙を折る.....
とても明るいマダム達にとても喜ばれて気に入られ、ここで毎週水曜日折り紙ワークショップをしたいと申し出ると、大喜びで快諾してくださいました。
お互い、片言の英語。。。っていうのが逆によかったのかもしれません。
帰宅後、同じスペースのカナダ人アーティストヴェセナと日本人アーティストの出月さんに珈琲とケーキを頂きながら(またしても....)報告すると、エヴェッサが目をまんまるにして「何?リカ、アポイントメントをとってポートフォリオもっていってきたの?」「誰か紹介してくれたの?」ってきいてくるので、「ノーアポ飛び込み」と説明すると、めちゃくちゃ幸せそうに笑って私の顔を見てくれてそれがちょっと心地よかった。
そんなふうに、ここでも気持ちを持ち上げてくれる人たちが居ることに沁みる。
私はコミュニティを自分で作っていきたいか?というと、多分あまりそう云う欲求はないのだけれど、それらの間を移動して、それらの結実した物を運んでいきたいというのはある。
そう、蜜蜂のように。
「いつかそれで島をつくるんだよ、きみは。」
と、あるアーティストにいわれて、予想外の指摘だったけれど
ちょっと引っかかっていて、少しだけ気に入っている。
それを云われたときに、ドゥルーズの無人島のテキストを思い出した。
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始源的な島なのに、人はそこに向かって派生しうる。
派生的でしかない島のなかで、人は創造しうる。
よくよく思い巡らせば、そこで人はありとあらゆる島が、
理論上無人であること、
あり続けることの新たな理由を見出すだろう。
ひとつの島が無人島でなくなるためには、なるほど、
単に人が住むだけでは足りない。
島にかかわる人間の運動は、
人間以前の島の運動をやりな直す。
もしそれが本当だとしたら、
人々は島に居着くことができるが、そこはなお無人であり、
なおいっそう無人になる。
ただ彼らが、充分に、つまり絶対的に分離され、
充分に、つまり絶対的に創造的であるとするなら。
島にやって来る人間たちは、現実に島に居着き、
そこで住民を増やす。
しかし、本当は、もし彼らが充分に分離され、
充分に創造的であるのなら、
彼らは、ただ島に、島自身についてのひとつの動的な
イマージュを与えるだけだろう。
島を生み出した運動についてひとつの意識を与えるだろう。
無人島の本質は、想像的であって、現実的ではない、
神話的であって地理学的ではない。
無人島の原因と理由 Gilles Deleuze より
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扉を多くもち、それらを閉じながらしてそして開く、
またはつねに空け開げられている。