ずいぶん
ご無沙汰しているけれど時々釣行する。
目的は食べるため。
なので、釣った魚は小さくて食べるのはまだ早いのはリリースするけれど、ほとんどリリースしない。
そして釣ってすぐ絞める。勿論自分でさばく。
それはもう、おいしくいただくために無駄なく美しく。

昔
ホウボウを釣ったとき、本当に「ホウボウ」と鳴くからペットにしてみようか、とすぐに絞めずに釣りの最中バケツに入れていた。
釣りが終わった頃ホウボウは固くなっていて、その姿は既に愛でる対象ではなく、食するものにかわっていた。
そのときのホウボウは刺身にして食し、アラはみそ汁にしていただいた。

去年
いのちの食べ方という映画を見た。
そこには、当たり前にオートマチックに働く装置とその手伝いをする人間。
そして、生き物であるにもかかわらず、乾いた感触のする動物たち。

最後の断末魔だけが唯一リアルで、映画はひたすら美しい構図で現実を投影し、
その視点は見る側にゆだねられていた。

少し前
友人とその映画の話をした。
彼は「僕はあの牛のようにはなりたくない。」と云った。

その視点は全く私は決して陥る場所ではなかったことなので、驚いた。
まっすぐすぎる意見。
しかしながら、まったく彼の生き方に沿った意見だった。

昨日
通っている勤務先の文化人類学の特別講義。
芝浦屠場で働く栃木さんの講義を聞く。

屠殺場の歴史というのは、古い。
私は関西圏内の田舎で育ったから、なんとなくその温度を肌で知っている。

現代の社会が孕む、気味の悪い潔癖性さは、二重の偏見があるというのも、話を聞いていてとてもよく分かった。

栃木さんは講義の最後に
「自分は仕事として人間を育むために東京都に安定した食品を供給する。屠殺という仕事を誇りを持ってやっている。」と締めくくった。

彼らは仕事に誇りを持っている。
彼ら職人の技によってさばいたものをいただいているということが、話を聞いていて安心し、うれしかった。

かつて
稲作は大陸から帰化人より持ち込まれた。
それまでは畑作、狩猟採取で営みをおこなっていた。
山間部が70%もある日本の国土で、畑作だけで食物をまかなえたはずもないし、やっぱり元々生き物の肉を食していたことは普通にイメージできる。

食べなければ生きていけない。
そのことをより保証してくれる稲作が大陸から伝来したことで、日本の社会の構造は稲作的な社会にゆるやかに確かに変化した。

そのことの延長線上に、屠殺場で働く人への偏見も大きく関係しているのだろう。
いままで気づくこともなかったけど、スケープゴートを生み出す構造は私たちの体の中にくっきりと植え付けられているのだろうと、友人のまっすぐな意見を思い出しながらはっとした。

最近
私はあまり肉は食べない。いや食べれなくなった。
で、食べないことで自分は体調がよいと云うことを知って、より食べることが少なくなった。
元来日本人は肉を食べなくていい体質であるという意見もある。
私自身は幼少時肉より魚を多く食べていたからなんじゃないかと勝手におもっている。
(それは骨密度108%でも立証済み 笑)
でもまぁ、お肉を食べることを否定する気もないし、美味しく食べられる人がうらやましかったりもする。

生きていくために必要な物だから食べる、そのことに過剰に倫理や潔癖さを追求し、思想的なロジックに陥るよりも、もっと見つめたいことが私にはある。

営みとは?
私たちはどこから来てどこへいくのか?
posted by akirika at 00:22|
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