2009年10月30日

神保町

だいすきな町神保町では古本まつりが始まっています。

ポスターは横尾忠則氏の書き下ろしだそうです。

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どの本屋さんにもお店の外には貼っていなくて店の中に大事に貼ってありました。


それと同時にリトルエキスポも開催。

言水制作室では「半分書店」を開店中。


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展覧会のカタログや言水制作室刊行物の販売とともに大村みよこさんの作品を展示中。

その半分書店で「堂々めぐり」販売促進中です。
今日覗きにいってだらっとしていたら、お客さんお二人がそれぞれ一冊ずつ買ってくださいました。わーい
「堂々めぐり」じわじわと、売れております。

お隣の[1号室|2号室]でも中村綾緒さんの作品展開催中です。

久しぶりにいもやにもいきました。
相変わらず完璧な客さばきと旨し天丼。

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2009年10月29日

甘藷先生

本は常に何冊か同時進行で読みます。
仕事の合間と電車の中用に鞄のなかには宮本常一
家のちゃぶ台にはミル・プラトー
お風呂場にはぐるりのこと 梨木香歩
枕元には自然療法の本
これぐらいのばらばらさが丁度よい

でも今はしばらく仕事が休み。台風の日半分避難で図書館に逃げ込み(家は古いので強風の日雨戸を閉めるタイミングを逃すととてもうるさいの)
私の琴線に触れたのは宮本常一。
しばらく翁の世界にはまってみることに。

今読み進めているのは「甘藷の歴史」甘藷とはさといものこと。
芋はまえまえから気になっていたのです。

一昨日ネットでたまたま甘藷まつりなるものを発見し、歴史手帖を愛用する私としてはいっておかないといけない行事。

あたたかな陽気に背中を押されて目黒不動尊につくといきなり阿波踊りに迎えられる。

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この夏阿波踊り真っ最中に徳島に居た(しかしそれを体験する事はできなかった)わたしにとってはなんだか感慨深い。これを見にきたのか?と一瞬納得する。

法被には「さんま」の文字

そっか、目黒はさんままつりで有名だった...

去年神山にレジデンスでいったときも、町長さんが目黒のさんま祭りにスダチ持っていってきたっていってたもんね。
ひとしきり阿波踊りを眺めたあと階段を上りお不動さんを参る。


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お不動さんの裏には大日如来が、そしてその奥には鳥居が有り、小さな石のほこら。
土地の石神さまがいらっしゃいました。


その裏の道を進むと甘藷先生こと青木昆陽のお墓。
10月12日は甘藷先生の命日。
それにちなんでのまつりなんだそうです。

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墓前には徳島のなると金時が!


おなかが減ったので、大学芋をいただきながらぼーっと人の流れを眺めていると昔も今もあまり変わりはない気がしてきて、時代劇のような着物を着た人々が縁日を楽しむ姿がオーバーラップする。いやほんとまんまなんだけどなんかそう思ったのだ。

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帝都は貴族と極度に貧しいものの二重構造によって成り立ってくる。この二つのものをつないだ形で民衆信仰をもった寺院が存在した。
(中略)
その内側に店家を何件もかかえている。小さいながら寺内町をもっているのである。
(中略)
とにかく都には物資が集まり、また多くの労力を必要とするということもあって、そこには人が集まってきたのである。
ヨーロッパおよびオリエントの都市ははじめからひとつの自衛手段として町をつくり城壁をめぐらし、そこにおのずから市民精神というようなものが生まれでたのであるが、日本の場合にはそうではなかった。都府にしても、国府にしても、そこは支配者の政務をとるところとしてつくられたのである。そしてその空閑地へ浮浪者や貧窮のものが住み着く形でマチが発達しはじめるのである。
しかも人々が貧しいながらも都府に集まってきたということは、そこに貨幣が動いていたからにほかならぬ。米をもってすべての物資が交換される場合にはどうしてもまず米をもたねばならぬ。したがって水田農耕に従う事が生きる重要な手段になるが、貨幣によって物資流通がおこなわれるならば農耕をはなれても生活を立てる手段は容易に生じてくる。そして土地をもたなくても生きていく道ができてくる。

宮本常一「町のなりたち/町の発生」より



つまり日本の町は、ヨーロッパのように都市計画によってできた計画的なのはなく、飢饉などで農業ができなくなって流浪を余儀なくされた人々が生活のための営みとして物流をおこない、それにともなった市によって定着していったものが今の町と呼ばれる場所の原型だと。

あぁ、その緩さだいすきだなぁ。

目黒不動尊を後にして、リハビリもかねて北西に5キロ祐天寺のナリワイまで歩いた。
しかし今日もイトウさん不在。アポなしあかんね、イトウさんすみません。
今では周辺部は都市計画のもとに居住区と大型ショッピングモールがはっきりと分けられつつある。
都市部である目黒区のこの辺りも、さっきまで古い商店街だったとおもったら急に建て売り住宅の並ぶ人気のない町。
隣近所のごあいさつぐらいはしたとしても祭りがおきることはないだろうし、もし地域の問題が発生してもなかなか協力して解決していく事は難しいだろう。

住まう事を簡略化してしまうと、なんだか住み心地はどうなんだろうか。
それは私が住んでいる町の周辺でもおきていて、ここに12年住んでいて私たちはあまりかわらずも周りが徐々に変化し住みづらくなってきている。

でもまぁ、元来日本人てあんまり住み心地とか気にしなかったのかもなぁ、とも「山に生きる人々」「海に生きる人々」を読んでおもったり。

住めば都ということだろうか。。

で話は甘藷先生に戻って。。
サツマイモはすごいんですよ。いや本当。

それは昔コリンタッジの「農業は人類の原罪である」を読んで各種芋については思いを馳せていたのですが。。

ま、もうちょっと咀嚼します。


で、今私がはまっているのは安納芋
焼き芋にすると、とろとろのほくほくで美味しいのです。
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2009年10月26日

じょしのまほう

どんよりした日曜日。
そんな天気だったとしても、女子は楽しく過ごせる魔法を持っています。

お昼過ぎさっちゃんとちえちゃんとみきちゃんがおいしいご飯をもってやってきました。


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本日のメニューは

ちえちゃんのロールキャベツ 
さっちゃんのサモサとグリーンサラダ、クリームチースとラフランスの相性がすばらしいの
みきちゃんのなすとオリーブのソテーバルサミコ味
私はひじきと根菜のお惣菜とスダチ酵母のぶあつめピタバン、それに味噌ごまペースト。

相変わらず、見事かぶらず。

前日にちえちゃんが「ロールキャベツをつくろうかな〜」という一言。
で、その他の女子たちはぽかぽかのロールキャベツ妄想し、別にお互いなにかもうしあわせるわけでもなく集まったメニュー。

食後にはさっちゃんの旦那さんお気に入りのチョコレートケーキ&アキリカ珈琲で〆ナリ。



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おなかぺこぺこで、いただきますが祈りになってしまった。


このあとみんなは国立の北側でのアトリエ展へ
私はまだいけていないので、いったら報告します。

黄色い鳥器店にもいったみたい。

国立は今度の日曜日から天下市
一橋大学の学園祭もあります。


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2009年10月24日

人間の営みの根幹

ずいぶん
ご無沙汰しているけれど時々釣行する。
目的は食べるため。
なので、釣った魚は小さくて食べるのはまだ早いのはリリースするけれど、ほとんどリリースしない。
そして釣ってすぐ絞める。勿論自分でさばく。
それはもう、おいしくいただくために無駄なく美しく。


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ホウボウを釣ったとき、本当に「ホウボウ」と鳴くからペットにしてみようか、とすぐに絞めずに釣りの最中バケツに入れていた。
釣りが終わった頃ホウボウは固くなっていて、その姿は既に愛でる対象ではなく、食するものにかわっていた。
そのときのホウボウは刺身にして食し、アラはみそ汁にしていただいた。


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去年
いのちの食べ方という映画を見た。
そこには、当たり前にオートマチックに働く装置とその手伝いをする人間。
そして、生き物であるにもかかわらず、乾いた感触のする動物たち。

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最後の断末魔だけが唯一リアルで、映画はひたすら美しい構図で現実を投影し、
その視点は見る側にゆだねられていた。


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少し前
友人とその映画の話をした。
彼は「僕はあの牛のようにはなりたくない。」と云った。


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その視点は全く私は決して陥る場所ではなかったことなので、驚いた。
まっすぐすぎる意見。
しかしながら、まったく彼の生き方に沿った意見だった。


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昨日
通っている勤務先の文化人類学の特別講義。
芝浦屠場で働く栃木さんの講義を聞く。


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屠殺場の歴史というのは、古い。
私は関西圏内の田舎で育ったから、なんとなくその温度を肌で知っている。


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現代の社会が孕む、気味の悪い潔癖性さは、二重の偏見があるというのも、話を聞いていてとてもよく分かった。


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栃木さんは講義の最後に
「自分は仕事として人間を育むために東京都に安定した食品を供給する。屠殺という仕事を誇りを持ってやっている。」と締めくくった。


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彼らは仕事に誇りを持っている。
彼ら職人の技によってさばいたものをいただいているということが、話を聞いていて安心し、うれしかった。


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かつて
稲作は大陸から帰化人より持ち込まれた。
それまでは畑作、狩猟採取で営みをおこなっていた。
山間部が70%もある日本の国土で、畑作だけで食物をまかなえたはずもないし、やっぱり元々生き物の肉を食していたことは普通にイメージできる。


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食べなければ生きていけない。
そのことをより保証してくれる稲作が大陸から伝来したことで、日本の社会の構造は稲作的な社会にゆるやかに確かに変化した。


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そのことの延長線上に、屠殺場で働く人への偏見も大きく関係しているのだろう。
いままで気づくこともなかったけど、スケープゴートを生み出す構造は私たちの体の中にくっきりと植え付けられているのだろうと、友人のまっすぐな意見を思い出しながらはっとした。


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最近
私はあまり肉は食べない。いや食べれなくなった。
で、食べないことで自分は体調がよいと云うことを知って、より食べることが少なくなった。
元来日本人は肉を食べなくていい体質であるという意見もある。
私自身は幼少時肉より魚を多く食べていたからなんじゃないかと勝手におもっている。
(それは骨密度108%でも立証済み 笑)
でもまぁ、お肉を食べることを否定する気もないし、美味しく食べられる人がうらやましかったりもする。


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生きていくために必要な物だから食べる、そのことに過剰に倫理や潔癖さを追求し、思想的なロジックに陥るよりも、もっと見つめたいことが私にはある。


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営みとは?

私たちはどこから来てどこへいくのか?
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2009年10月21日

空間

ウェブでだって言葉から溢れてくるその人の体温を感じることがある。
自分の日々の延長線上に交差するその人の日々。
その人がまだ会ったことがない人であったとしても、
ずーっと会っていないひとであったとしても...

そんな人の一人、K10ちゃんとの再会。

あってすぐ、お互いの言葉と言葉が囲む空間。

その後彼女の師の手が織りなす空間に包まれる。
右手と左手のそれぞれの線が生み出す空間。
決して交わらず、互いがそれぞれの脱領土と再領土を繰り返す。
高須博氏のピアノ

領土とはまさに一つの行為であり、この行為がすべての環境とリズムを触発して「領土化」をおこなうのだ。領土はすべての環境とリズムを領土化したときに生まれてくるものだ。

(ミルプラトー リトルネロについて より抜粋)


領土、脱領土、再領土についてはここのところミルプラトーを何度も読み返して考えこんでいて、それはこのなつのことの続きとして、そしてngaokaくんとの話の続きとしても、交差するところ。

もう少し反芻が必要。








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2009年10月20日

たね

日曜日、久しぶりの朝霞
soup stock Tokyoの店先でフライヤー

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 東と西、北と南の風土の違いは価値であり、
 しかし、摩擦の種でもある。 
 国ごとの文化の違いは価値であり、
 しかし戦争の種でもある。
 企業ごとのプロダクトの違いは価値であり、
 しかし過剰な競争の種でもある。
 その争いの結果、物は過剰に溢れたり、
 過剰に消失し、社会にも地球にも負担をかけてきた。
 

 (以下省略)

pass the batonのフライヤーのテキスト。


。。。


そして今日高嶺さんのトーク

大きな休日、鹿児島エスペラント、God bless Americaなどを映像とともに語る。
コンセプトや構造を解説するというよりは、そのときの自分のこと、向かっていた視線について。


作品は答えではなく問いであること、それは他者へ向けて、自分自身へ向けて。

ひとつの、しかしありとあらゆる可能性の種

この日のトークのタイトルは「どこで暮らそうか?」


。。。



夜、彼女からの誘い。
今日の昼間、私もあなたのことを考えていました。
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2009年10月17日

ぎんもくせい

いつまでたっても霞まない記憶。
嗅覚には特にその魔法が潜んでいて、それは自分自身が認識するわたしが忘れていたとしても、わたしの体はわすれてはいない。

そういう反応が訪れたとき、ほんとうにどきりとする。


。。

いつも通るみち
わすれてはいないどこかの記憶がその薫りをとらえる。
それは何処の記憶なのか、薫りをたよりに、潜ってみるけれど、おもいだせないままだ。

記憶はどこまで深くあるのだろうか。

締め付けられるように懐かしい。

銀木犀のかおり


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。。。

かえりみち別のみちを通って帰る。

その途中で、器をひとつつれて帰る。

ゆうやくのシミがぽつりぽつりとあって、あまり描かれていないものがしっくりきた。


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これからの私の日々に寄り添ってゆくであろう湯呑み。
こんにちわ、どうぞよろしく。


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今朝のブレンドは、マンデリン、マラウィ、コロンビア、パプアニューギニア。
4つの豆のバランスでも大きく変わる味。今朝のはまぁまぁうまくいった。
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2009年10月14日

れんきゅう

水戸にいきたいなーと思いつつけっきょく行けなかった。

でも電車に乗って出かけられるようになったのは、ものすごい進歩。そんなことを自分の体で体感したり確認しながら毎日感動しています。


で、週末は友人さっちゃんと吉祥寺のOngoingでJIROXのドールショー

昔ギャラリー覚での体験が忘れられなくて、二回目。
やっぱり相変わらずよかった。

しっかし予約していったけど、観客3人、レアすぎな夜。
ジローさんから「選ばれた人」の称号をいただく。

さっちゃんは見終わって「ジローさん」を連呼してた。


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翌日はトーキョーワンダーサイト渋谷で大巻伸嗣「絶・景 −真空のゆらぎ」

東京都写真美術館でバスーラをみる。

狙ったわけではないけれど、それぞれゴミに関わること3つ。

。。


連休があけて日々がまたことこと始まり
私の体に残っているのはJIROXのドールショーなのだ。

それぞれの平坦な日常の歪みを、そして他者とのその差異を愛すること。
それは自分の日々のいとなみをフツーに世界平和につなげていくイメージ。

ぐるぐるでわくわくでちょっとひりひりな感じ。
。。

そんなことを考えていたら昨日の夜、ゆみちゃんから電話。
ゴミフミとタノさんと新宿で飲んでるって...


勝手に私の中でタノさんはラブアンドピースなひと(笑)←この(笑)大事

タノさんのピロdeトーク、行きたかったなぁ。。。










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2009年10月11日

黄色い週末

キンモクセイが薫りはじめたかえりみち、子供の頃夢で何度も見ていた「黄色い鳥器店」

沖縄の小泊さんの個展に立ち寄る。

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湯のみを手に取ると、その器とともにする日常を思い浮かべてしまう。
私がこれから送るであろう日々をそのまま受け入れてくれそうな、そんな安心感があるきいろい器にひかれる。

ご本人もいらっしゃったので、初めましてとご挨拶。
学生のときから同じグループ展に参加したりして名前はお互い知っていたけど、お話しするのははじめて。

今回のこの個展のことは未来ちゃんところで知った。

ぐるぐる。


。。。

その後代官山。
久しぶりの井の頭線。
ふと昔一緒によく折り紙を折っていたおばあちゃんのことを思い出した。


上野慶一さんと彫刻家吉さんとの2人展へ。
上野さんご本人もいらっしゃったので、ご心配をおかけしたことをおわびしつつ報告。


入院中私には二つ宿題があって、その一つは上野さんから授かったもの。
私はその宿題を解くことで、ちいさな白くて明るい部屋で自分の頭の森を彷徨うことに没頭し、泉に繋がる小川を引き当てた。

そして代官山で上野さんの絵に広がる黄色世界の景色に囲まれながら、この夏彷徨った森のことを反芻していた。


。。。。


宿題は静岡で再会できるみたい。
そのぐるぐるにわくわくしている。



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2009年10月08日

台風が去った後

いちどき激しくアブラゼミが鳴いた。

そのあとのどをカラカラ云わせて泣き止んだ。

蝉のいきたていたい意志に

いっしゅん締め付けられた。

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2009年10月04日

このなつのこと

まちづくりのひとつのテクネーとしてアートが迎え入れられるとき、まちが求めているのは「作品」なのか「作家」なのか。

。。。


日本のマニュファクチュアの基礎をつくったと言われる「古式捕鯨」の例をみてもわかるように、その体系は動きも思考も生理の違うさまざまな異質領域の間でつぎつぎに「接続」してゆくインターフェイスのつながりとしてできている。

舟を操る水夫の身体の動きは水中を猛スピードで泳いで行く鯨の動きに合わせてたくみに変化していく。
水中に飛び込んで鯨にしがみつく若者にいたっては、自分の存在のすべてを鯨の動きにゆだねてしまっている。
まず人間を鯨の間に柔軟に変化するインターフェイスを作り上げたうえでおもむろに鯨の動きを停止させていこうとする思考が優先されている。
そして髭の加工にいたるまでつぎつぎと性質の異なる行為を、互いの異質性を保ったままつないでいくインターフェイスの体系として、このマニュファクチュア体系はつくられている。

。。。

性質の違う物を、単一の原理に無理矢理従わせて均質にならしてしまうのが「一神教的テクノロジー」のやり方であるとするならば、異質なものの異質性を保ったまま、お互いの間に適切なインターフェイス=接続様式を見いだすというこの列島で発達したやり方は「多神教的テクノロジー」と呼ぶことができるかもしれない。

テクノロジーはけっしてひとつではないのである。人間が頭で考えだしたプログラムに従って自然の側を制圧し、変化させてしまおうとするテクノロジーばかりではなく、自然の側からの反応や手応えを受けつつ、人間の行為の側を変化させてゆくことによって、人間と自然の対称的な関係にもとづく、対話の様式としてつくり出されるテクノロジーというのもある。

中沢新一 精霊の王より
。。。。

たとえばそれが「捕鯨」ではなく「アートでまちづくり」として置き換えてみる。

昨年の秋、神山にのこしてきた作品が春一番で壊れた。
壊れた作品はそのままで夏をむかえた。

少しの休暇を得た私は山へ向かい、土地と人々にぽつりとひとつの行動を起こした。
だれにどうねがいでたわけでもなく、ひとつの行動は、水の波紋のようにゆったりとしずかに当たり前に広がっていった。

ひとつの作品をめぐって。
それらはかけがえのない現象を起こし、関わったそれぞれの人たちの記憶に埋まってゆく。
これから先、このなつのことを忘れていったとしても。

I don't mind if you forget me.


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「できるだけ多くの人がこの作品に関われることを」

私がこの作品に挑むとききめたことはそのこだった。
そのことに対して意義を申し立てる知人も居る。
それもひとつの関わり方だと私は思っている。
その問いは私への問いであって、おそらく自身への問いなのだと。


。。。

もういちど
まちが求めているのは「作品」なのか「作家」なのか。


私は最終的に「作品」だと思っている。



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ならば作家はどこへ行こう。
posted by akirika at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 神山町

2009年10月01日

ひゃくはち

「それって煩悩の数ですか?」

「その100を越えた8ってなんなの?」

「確実にOSアップしましたね。」

「そこ、逆に強くなったんすか!」

。。。。。


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「だいたい80が標準だから、充分すぎるね。」と談志先生
(いまのかかりつけの医者は談志師匠似....徳島での主治医は秋篠宮様似でした。)

骨密度108%

骨折しといていうのもなんなんですけど
骨には自信があったんです、昔から。


。。。。

10月ですね。
けがをしたのが8月1日
丁度2ヶ月経ちました。

生き物は、生きている限り破損した部位を修復する方向に向かうものなのだと、体で感じています。

理屈はやっぱり分からないし、今のところの私には要らないなぁ...

posted by akirika at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々
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