2011年12月30日

暮れ

IMG_2375.jpg

年の瀬のにゃんこせんせい。

。。


日光街道を日本橋から北千住まで。
日本橋から数キロはなれた場所には皮革問屋街、肉問屋街、社交場。
いまもそれは土地にべったりとはりついた土地の匂い。
土着 ということについて考える、

漂流

ことばにするとうまくいえないけれど、人々の業のようなものは、ぐるぐると連なり連鎖する
同じ場所にとどめずに、拡散し、ほどよく忘れたい。


。。。


気がつけば今年もあと2日。
年末はやはりひとつの節目、さっきすこしだけ自分のここの記事を数年振り返ってみました。
いろんな事が起きているようで、なんにも変わっていないようなそんな気もします。
それでも、日々は過ぎていき、社会は起きることを呑み込んで、うにょうにょと変化し、時代を経てゆく。
私たちはどうにかそれに追いつこうと、いろんな事をわすれたふりをして、生きてゆく。
そうしなければ、おいてけぼりだから。

例えばしばらく仕事で自宅を離れていて、久しぶりに帰って来て、そんで散歩していたら、お気に入りの建物があっけなく、取り壊されていたりすると、なんというか、自分だけがなにかに留まろうとしているんじゃないか?とぽかーんとしてしまったりするわけで。
なんというか、間に合わないです。いろいろ。


それを留めているのが、人の記憶なのだとしたら、私はその留めている物事を、聞きたいし、感じたい。
そんな感じなので、これからも多分、相変わらず会いたい人に会いにいきます。



。。。

昨日、久しぶりに縁側に猫のナカザワさんがきました。
時々忘れた頃にやってくるナカザワさん。
わすれんなよ、って。


IMG_2360.jpg

..

今年もいろんな事がありすぎて、まだ消化しきれていないのですが、これから時間をかけて帰省しつつ
いろいろと見て来た景色を反芻しながら島にたどり着きたいとおもいます。

それではみなさま良いお年をー
posted by akirika at 07:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 日々

2011年12月27日

日光街道堂々めぐり その1

首都高.jpg

先日の路地と人での「せんだいノート」の会で久しぶりに中西レモンさんに会う。
だいたい、会うといつも、本気なのか冗談なのかわからない事を云う赤パンのレモンさん。
私が勢いで、
「今度の天皇誕生日に日光街道を歩こうよ、皇居から川を越えるまで。」
レモン
「あぁ、良いですね、良いルートだ。」


結局23日は私の都合が合わず、そして皇居と日光街道は微妙にズレているので
24日の昼下がりから日本橋から歩いてきました。

まずは「凧の博物館」
たいめんけんのオーナーが無類の凧好きだったらしく、同じビルの上の階にあります。

凧の博物館2.jpg

凧の博物館1.jpg

のっけから笑かされました。

江戸の浮世絵や文学にやたら詳しいレモンさんのゆるい解説付きで、けっこう長居する。

。。

いわゆる今云われている日光街道を歩くという訳ではなく、街道周辺の脇道をきになるほうにすすむ私たち。

土着なかんじなものでは

地蔵.jpg

お地蔵さん

これは別のひに見つけたのだけど、お玉の池の跡

お玉の池跡.jpg

椙森神社

IMG_2315.jpg

ここと柳森、烏森で江戸山森だそうです。


柳森神社にある力石群、富士の溶岩とともにまつられていました。

力石.jpg

柳森神社の「こて絵」

こて画.jpg

柳森神社の空間は完璧で、居心地がよい、だからかどうかはわからないけど猫が多し。

IMG_2298.jpg

竹森神社.jpg

江戸山森には入っていないみたいですが、竹森神社というのもあり、ものすごく小さな空間だけど居心地がよかった。
ここの向いにある定食屋さん要チェック。次回絶対に行くとレモンさんと私それぞれこころに決める。


建物できになったのは

岩本町問屋街の銅葺きの看板建築。
岩本町.jpg

公共施設の建物は、だいたいなんか無駄な装飾が多いと思います。

公共機関の建物.jpg

こういう感じ大好きです。

浅草橋.jpg

すこしはなれたところでも、こんな感じ。はやったんかなぁ。

浅草橋2.jpg

あと暮らしたくなる感じの商店街は

先日、エンテツさんの古墳ナイトで話題になっていた鳥越神社のちかくにおかず横丁。

おかず横丁.jpg

山谷のいろは横丁らへん

いろは横丁.jpg

あとと三ノ輪橋の商店街は狭さと密集具合がいつも居心地いい。

看板できになったのが..

美枝子の店.jpg

ボローニュ.jpg

ロシヤ.jpg

。。

紀州街道を歩いたときにも感じたのですが、日光街道でも大きな川を越えると、なんというか、自治の変化をかんじます。
千住大橋を越えて南千住エリアから北千住エリアに入ると、やたらと「街道」を主張するのが面白かったです。

この話は、ほかのエリアを歩いて感じたり考えたりしたことと共にその2で書こうと思います。
posted by akirika at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々

2011年12月20日

わすれてはいないこと

全体.jpg


瀬尾さんと小森さんとは多分5月頃仙台でばったり知り合った。
経緯はよく知らないのだけど、彼女たちは二人で東北の被災している地域を映像をとりながら話を聞いている。
一度だけではなく何度も通っている。

彼女たちがどんな景色を見てきたのだろうと、それをご飯を食べながら聞く事もできるのだけど
もっと距離のある関係で聞いてみたくて報告会会場の3331へ。
彼女たちの話を聞きながら、自分自身が見ている景色、そしてなぜだか昔通っていた老人ホームで知り合った「岩井さん」のことを思い出していた。


。。。。。

私はその老人ホームで働く友人に、折り紙を一緒に折る、ボランティアをやってみないか?と誘われていったのだけど、
途中からはそれは口実になっていた。
そこで知り合った岩井さんと私は同じ干支で、長崎生まれそだった岩井さんは私の年齢と同じ年の頃、長崎で戦渦に遭っていた。
被爆は免れたものの、それは大変だったと、そんな話をしたかと思うと、
もっと若い女学院通いだった頃のこと、東京に嫁いできて旦那さんと幸せだったこと、息子を先になくしてしまったこと、そんな話が、時代を交差して入り乱れつつ、私にぽつりぽつりと話をする。


あるときひまわりを折っていて、ちゃんと飾りたいから茎のための竹串が欲しいと云った岩井さんに100円均一で買ってきた竹串の束を手渡した。
彼女はそれをみてめをまんまるにして「そんなに沢山つかえない、もったいない」と。
私はすかさず、「でもこれ100円だから」と云うと
「1本しかつかわないのに、もったいない。」と...
そこから気持ちが動けなくなっているのを見て、
私ははっとしてしまった。

それからも多分10日に一回は岩井さんのところに通っていた。
通い足りない気持ちとともに、彼女の日常に私が深くかかわる事も、少し恐れてもいた。

その後岩井さんは入院し、告げられていない自分の病気の事も充分気がついていて、孫や親戚に云えない気持ちを絞り出すように打ち明けたことがあった。
「長崎に帰りたい」と。
もちろん私にはどうしようもできるわけでもなく、彼女はその後数日後に他界した。

私たちはどこまで先に進んできてしまったんだろう。。。

ものすごく寒い日に初めて伺う岩井さんの自宅で
静かに眠る彼女の亡がらを見つめながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。

。。。。

先日岩手の野田村に再び訪れた。
そこのとある仮設住宅で、小さな窓からずーっと外を眺めているおばあちゃんに知り合った。
彼女の話は、津波のこと、嫁いできた頃の話、今のお嫁さんが大事にしてくれている話、子供の頃塩づくりのために薪を集める話
そんな彼女の見てきた景色が交差する。

そうして、「たのしいことはこれっぽっちもなかった」とくりかえしくりかえし何度も云う。

そのこと私には聞くだけしかできない、
けれども、聞くことだけはとことんつき合おうともおもっている。
彼女の「たのしいことはこれっぽっちもない」状況を私の力でどうにかしよう、とか、彼女たちのために何かしようというのとは、少し違っていて、ちゃんと一人の人間同士としてつき合いたいし、そういう意味では私ができる事は彼女と当たり前につき合っていきたい、と思っている。
それは野田村に関わらず、すべての出会う人たちと。



そんなことを瀬尾さんと小森さんの話を聞きながら考えていた。



努めなければならないのは、自分を完成することだ。
試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ。

サンテクジュペリ「人間の土地」より







瀬尾さんと小森さんの見てきた景色の話
http://komori-seo.main.jp/

posted by akirika at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々
Powered by さくらのブログ (C) 2008 AKIRIKA All Rights Reserved