

ここのところ、民族映像研究所のアチックフォーラムに通っていて、隔週で土曜日、所長の姫田さんによるドキュメントフィルムの定期上映会。
今回は『中世の躍動「一遍聖絵」を読む』の3つの映像をみてきました。
45分3本みたけど、その長さがまた、とても大事で、今まであまり興味を持っていなかったのだけど、聖絵自体がこの時代の記録物になっていて、細かい描写とひとつの画面のなかにある様々な情報、映像で考えたら30分とか1時間くらいの情報量がある。
それらの情報としての絵画をくわしく読み解く事で、時代の中の様々な境界線が浮かんでくる。
私が感じた事は、一遍上人とは、アクティビストで、聖絵とはそのアクティビストと、その背景の社会や政治、文化も含めた記録、つまりメディアだということを、姫田さんが感知し、この3本のドキュメンタリーフィルムで年数をかけてしつこく撮ったのだと。
つまり、この映像自体もまた、聖絵と描かれた土地と人との関係背を描いた絵巻物のような映像なのではないかと感じました。
座談会の途中で、「秘境」とかいう言葉は街から見た一方的な言葉だからできるだけ使わないよう気をつけている、とおっしゃった。
例えば「限界集落」なんて表現完全に一方向からの見方だ、私たちはそこに陥ってはいけないと。
最近私はそんな風に陥ってしまう状況を「誤訳」と言ったりしてみてるのだけど、帰り際に、その事をある方にお話ししていると
「それは田舎出の人間のコンプレックスじゃないの?」と。
そう考える考え方もあるかもしれない、たしかに。
しかし、私自身がそのコンプレックスを持っているというよりも、コンプレックスを持っている人と出会ってしまったと言ったほうが正しいかもしれない。
田舎と呼ばれる地域の人が都市と呼ばれる土地の事のことや地域に住んでいる人のことを羨み、
都市と呼ばれる地域の人が田舎と呼ばれる土地の事のことや地域に住んでいる人のことを憧れる。
とある地域において、アートプロジェクトが成されるときに、アーティストがきて地元の人はこんなに喜びましたという評価が
なにを評価しているのか、よくわからなくて、その表現と「秘境」という表現は似ている気がする。
アートについても、そこの土地の地域性についても批評していないと思うのだ。
現場では、衝突と理解を繰り返して、創り造るという現象と関係性は発生している。そこをちゃんと見る人が云わないと、現場に居合せない人は、異郷を秘境と誤読してしまうんじゃないだろうか?
そうして神話にして、美しいだけの話にしてしまっても、なんだかつまらないのだ。
私にとっては一遍上人がどんなに暴れん坊で、どたんばどんでん返しだったのか、という話のほうが魅力的だし、最高の教えだとおもってしまうのだ。
もっと一遍さんと聖絵のこと調べてみよう。
