2012年01月29日

一遍聖絵

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ここのところ、民族映像研究所のアチックフォーラムに通っていて、隔週で土曜日、所長の姫田さんによるドキュメントフィルムの定期上映会。
今回は『中世の躍動「一遍聖絵」を読む』の3つの映像をみてきました。

45分3本みたけど、その長さがまた、とても大事で、今まであまり興味を持っていなかったのだけど、聖絵自体がこの時代の記録物になっていて、細かい描写とひとつの画面のなかにある様々な情報、映像で考えたら30分とか1時間くらいの情報量がある。
それらの情報としての絵画をくわしく読み解く事で、時代の中の様々な境界線が浮かんでくる。
私が感じた事は、一遍上人とは、アクティビストで、聖絵とはそのアクティビストと、その背景の社会や政治、文化も含めた記録、つまりメディアだということを、姫田さんが感知し、この3本のドキュメンタリーフィルムで年数をかけてしつこく撮ったのだと。
つまり、この映像自体もまた、聖絵と描かれた土地と人との関係背を描いた絵巻物のような映像なのではないかと感じました。

座談会の途中で、「秘境」とかいう言葉は街から見た一方的な言葉だからできるだけ使わないよう気をつけている、とおっしゃった。
例えば「限界集落」なんて表現完全に一方向からの見方だ、私たちはそこに陥ってはいけないと。
最近私はそんな風に陥ってしまう状況を「誤訳」と言ったりしてみてるのだけど、帰り際に、その事をある方にお話ししていると
「それは田舎出の人間のコンプレックスじゃないの?」と。
そう考える考え方もあるかもしれない、たしかに。
しかし、私自身がそのコンプレックスを持っているというよりも、コンプレックスを持っている人と出会ってしまったと言ったほうが正しいかもしれない。
田舎と呼ばれる地域の人が都市と呼ばれる土地の事のことや地域に住んでいる人のことを羨み、
都市と呼ばれる地域の人が田舎と呼ばれる土地の事のことや地域に住んでいる人のことを憧れる。

とある地域において、アートプロジェクトが成されるときに、アーティストがきて地元の人はこんなに喜びましたという評価が
なにを評価しているのか、よくわからなくて、その表現と「秘境」という表現は似ている気がする。
アートについても、そこの土地の地域性についても批評していないと思うのだ。
現場では、衝突と理解を繰り返して、創り造るという現象と関係性は発生している。そこをちゃんと見る人が云わないと、現場に居合せない人は、異郷を秘境と誤読してしまうんじゃないだろうか?
そうして神話にして、美しいだけの話にしてしまっても、なんだかつまらないのだ。

私にとっては一遍上人がどんなに暴れん坊で、どたんばどんでん返しだったのか、という話のほうが魅力的だし、最高の教えだとおもってしまうのだ。

もっと一遍さんと聖絵のこと調べてみよう。

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posted by akirika at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 関心事

2012年01月23日

2012年

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なにかこう、朝から清々しく、さめざめとした気分で、暦を見たら今日は旧暦では年明け、新月。
そういったことにこだわって生活している訳ではありませんが(あ、新月は大潮なので釣れるなぁーとはいつも思いますが。)なにか、こう、自分の動物としての感覚や感情が日常の隙間にむき出しになるとき、それをあまり無視しないようにしたいなぁ、とおもっていたりします。神話に作用されることなく。

で、他の事があって、画像の整理をしているのですが、それを見返していると、年末年始も相変わらず移動していて、それぞれみた景色が面白かったので、だらだらと報告します。

。。

大晦日は、生駒山へ。
これは長年生駒山をフィールドワークしている宗教社会学者の渡邊さんと一緒に。
石上から頂上へ向かい、奈良側に下りました。
大晦日の生駒山はほとんど人気がなく、今後この登山は語りぐさになろるであろうと、ワタナビーさんと既に爆笑しつつ登山。
出発が遅すぎて、下山はまさかの暗闇のなかで、危ないのですが、面白かった(はい、もう二度とやりません。)
石上から山の際にある朝鮮寺の存在が、なんというかいとおしく美しかった。

生駒の神々とても参考になる本です。

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その後はふるさとに帰省し、自然舎のやまちゃんといきなり誘った高松の庭師の多田さんも一緒に島八十八カ所の行場巡り。
子供時分は友達と探検しつつ知らぬ間に島四国をまわっていたりすることがあったのだけど、山の観音さんは行った事がなかった。
山を登ってゆくと滝が二筋。その前にめぐったお不動さんで、熱心に祈祷するおばちゃんたちが「あそこはええで、今日あたりほんまにきれいやと思うわ」とすすめてくれたし、山ちゃんも最近見つけたお気に入りの場所。
本当に美しい場所だった。
今こうしているときもあの場所は絶えず自然の摂理に従って運動が起きている、ということを思うことで、意識が広がる。
なにか気持ちが還ることができる。

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そのすすめてくれたおばちゃんたちが祈祷をあげていた場所。
(実際に祈祷するのは少しくだったところにあるお不動さんですが...)

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それから今年100歳になる祖母がいる豊島へ。大叔父さんの軽トラを借りてドライブ。
その後この軽トラがパンクし、友人のイチゴ農家の森島さんに、年始初の森島JAF出動をいただいてしまいました(笑)
壇山には行けなかった。けど、またゆきます、スダジイの翁に会いに。

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100歳をむかえるばあちゃんは、元気でした。

。。

その後神山では、すこしインタビューと(これのために今写真を整理しているのですが)猪を犬で追って狩っている81歳の翁にお会いしてきました。3時間ぐらいお話を聞かせていただいたのですが、心に張り付いているのは「猪を狩る」という表現ではなく「山で仕事をしている」という表現。そして、20匹ほど居る一緒に仕事をする犬との精神的なつながり。

まだまだ話足りないし、翁もまた来いといってくださっているし、今後もうかがおうとおもっています。
。。

そうして、また大阪へ戻り、ついていきなり友人宅にてちやほやされ、インタビューや、去年歩いた紀州街道のきになったところをもう一度歩いたり、釜ヶ崎へ用事もないのにいったり、十日戎に行ってもみくちゃにされたり、プレオープンしたばっかりの「OTONARI」におなかぺこぺこで駆けつけて、メニューにないご飯を作っていただいて、ちやほやされたり、
中崎くんの展覧会へいったり。大阪のアーツカウンシルを作る会のシンポジウムへいったり。

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。。。


いつものごとく、あっちこっち行き過ぎてやや未整理なのですが、あっちとこっちとそっちとこっちで、人はなんかしらのよりどころをもってバラバラに集まる。
それくらいがちょうどいいなぁって。


帰って来て、路地と人で遅い新年会。
仙台に出稼ぎ中のチナツちゃん不在で一人たりないのですが、路地と人も3年目に入りました。
あいかわらず、ばらばらで、テキトーなのですが、そこがまた家族のようで...

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小さな力であり続けること。
その力はいつ、どこへでも飛び火できるちからであること。
ひろく多様なことをふまえ、故にシンプルであること。


まぁ、なんにせよ、気ぃようやります。
今年もよろしくおねがいします。

posted by akirika at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々
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