仕事の合間と電車の中用に鞄のなかには宮本常一
家のちゃぶ台にはミル・プラトー
お風呂場にはぐるりのこと 梨木香歩
枕元には自然療法の本
これぐらいのばらばらさが丁度よい
でも今はしばらく仕事が休み。台風の日半分避難で図書館に逃げ込み(家は古いので強風の日雨戸を閉めるタイミングを逃すととてもうるさいの)
私の琴線に触れたのは宮本常一。
しばらく翁の世界にはまってみることに。
今読み進めているのは「甘藷の歴史」甘藷とはさといものこと。
芋はまえまえから気になっていたのです。
一昨日ネットでたまたま甘藷まつりなるものを発見し、歴史手帖を愛用する私としてはいっておかないといけない行事。
あたたかな陽気に背中を押されて目黒不動尊につくといきなり阿波踊りに迎えられる。






この夏阿波踊り真っ最中に徳島に居た(しかしそれを体験する事はできなかった)わたしにとってはなんだか感慨深い。これを見にきたのか?と一瞬納得する。
法被には「さんま」の文字
そっか、目黒はさんままつりで有名だった...
去年神山にレジデンスでいったときも、町長さんが目黒のさんま祭りにスダチ持っていってきたっていってたもんね。
ひとしきり阿波踊りを眺めたあと階段を上りお不動さんを参る。

お不動さんの裏には大日如来が、そしてその奥には鳥居が有り、小さな石のほこら。
土地の石神さまがいらっしゃいました。
その裏の道を進むと甘藷先生こと青木昆陽のお墓。
10月12日は甘藷先生の命日。
それにちなんでのまつりなんだそうです。

墓前には徳島のなると金時が!
おなかが減ったので、大学芋をいただきながらぼーっと人の流れを眺めていると昔も今もあまり変わりはない気がしてきて、時代劇のような着物を着た人々が縁日を楽しむ姿がオーバーラップする。いやほんとまんまなんだけどなんかそう思ったのだ。

帝都は貴族と極度に貧しいものの二重構造によって成り立ってくる。この二つのものをつないだ形で民衆信仰をもった寺院が存在した。
(中略)
その内側に店家を何件もかかえている。小さいながら寺内町をもっているのである。
(中略)
とにかく都には物資が集まり、また多くの労力を必要とするということもあって、そこには人が集まってきたのである。
ヨーロッパおよびオリエントの都市ははじめからひとつの自衛手段として町をつくり城壁をめぐらし、そこにおのずから市民精神というようなものが生まれでたのであるが、日本の場合にはそうではなかった。都府にしても、国府にしても、そこは支配者の政務をとるところとしてつくられたのである。そしてその空閑地へ浮浪者や貧窮のものが住み着く形でマチが発達しはじめるのである。
しかも人々が貧しいながらも都府に集まってきたということは、そこに貨幣が動いていたからにほかならぬ。米をもってすべての物資が交換される場合にはどうしてもまず米をもたねばならぬ。したがって水田農耕に従う事が生きる重要な手段になるが、貨幣によって物資流通がおこなわれるならば農耕をはなれても生活を立てる手段は容易に生じてくる。そして土地をもたなくても生きていく道ができてくる。
宮本常一「町のなりたち/町の発生」より
つまり日本の町は、ヨーロッパのように都市計画によってできた計画的なのはなく、飢饉などで農業ができなくなって流浪を余儀なくされた人々が生活のための営みとして物流をおこない、それにともなった市によって定着していったものが今の町と呼ばれる場所の原型だと。
あぁ、その緩さだいすきだなぁ。
目黒不動尊を後にして、リハビリもかねて北西に5キロ祐天寺のナリワイまで歩いた。
しかし今日もイトウさん不在。アポなしあかんね、イトウさんすみません。
今では周辺部は都市計画のもとに居住区と大型ショッピングモールがはっきりと分けられつつある。
都市部である目黒区のこの辺りも、さっきまで古い商店街だったとおもったら急に建て売り住宅の並ぶ人気のない町。
隣近所のごあいさつぐらいはしたとしても祭りがおきることはないだろうし、もし地域の問題が発生してもなかなか協力して解決していく事は難しいだろう。
住まう事を簡略化してしまうと、なんだか住み心地はどうなんだろうか。
それは私が住んでいる町の周辺でもおきていて、ここに12年住んでいて私たちはあまりかわらずも周りが徐々に変化し住みづらくなってきている。
でもまぁ、元来日本人てあんまり住み心地とか気にしなかったのかもなぁ、とも「山に生きる人々」「海に生きる人々」を読んでおもったり。
住めば都ということだろうか。。
で話は甘藷先生に戻って。。
サツマイモはすごいんですよ。いや本当。
それは昔コリンタッジの「農業は人類の原罪である」を読んで各種芋については思いを馳せていたのですが。。
ま、もうちょっと咀嚼します。
で、今私がはまっているのは安納芋
焼き芋にすると、とろとろのほくほくで美味しいのです。