2012年10月05日

営みと表現のあいだ


家浦の浜の路地は狭く、コンクリートの道。
それらは古くて、至る所に積み重ねられてきた痕跡。

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家を壊した空き地の隅に地主神の祠を見つける事も多い。
今は そこにないもの/そこにあったことを標すもの

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そういえば、肥土山のニッキの木もかつて家があった頃の祠が建っていた場所だと、中野さんが教えてくれた。


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先日、軽トラを借りに近所のおじさんの家を訪ねた。
おじさんはじいちゃんの末の弟で、おじさんに「古い写真を集めている」と話すと、古い事をしらべるんやったら、と急に堰を切ったように牛ヶ首島の涅槃像の話しをしれた。私の大祖母はその島から豊島に嫁いできたそうだ。

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牛ヶ首島はかつては人が住んでいて、今は人が住んでいない。
今は住んでいた事がある時期の事を知っている人がいる。
でもいずれはその人たちも居なくなる。

しかしながら、島には大きな涅槃物の首が優しく横たわっている。
それは人々の暮らしの証だとおもう。



ーー

先日「裸の島」という映画を見た。
人が島に居着くことの、そのひたむきさと、どうしようもなさとを、小さな島で暮らすひとつの家族をとおして、静かに、繰り返し、見るこちら側に差し出してくる映画。

私はその映像詩のような画面を見ながら、ドゥルーズの無人島のテキストをくりかえしおもいつつ
数年前に見た「祝の島」という映画で、自分の畑の石段に毎日なにかを刻むじいさんのことを思い出していた。

ーー

先月、旧友のご実家からアルバムを預かった。彼女を知っているから感じられるのかもしれないのだけれど、アルバムを眺めていて、現れる記号を探しつつも、溢れてくる感情があった。

他者というその映された時間と場所に決して居合わす事が出来ない対岸から見た「家族」の豊かさと厚みの記録。撮る側のまなざしとの関係性の上に成り立つ記録。
希望に満ちた記録。
記録にはこんな豊かな可能性があるのだと、無我夢中スキャニングしていた。
それをどう共有すれば良いのか。
すべきではないのだろうという分別とともに、対岸にある親密さを担保する手法を考えている。
それが果たしてできるのだろうか?
そして日々増幅してゆく公開する事へのためらい。

もしかして知人だからためらうのだろうか?
見ず知らずの人だったらためらわないのだろうか? 
例えばベルリンの蚤の市で見た古いいつかのどこかの家族の写真を眺めた感情と、いまのこの感情の違いはあまりないような気がする。
しかし公開する事のためらいについてはものすごく違う。

つまり私はなんらかの関係性のなかで写真と対峙していた。
それは単に旧友であるということではなく、私が名前を名乗り、私の責任のもとで借りてきたというところにある。

写真を借りてくる際、持ち主の方と話しをし、写真を一緒に見ながらお話を聞く、長いときには3時間くらい聞いている。その話しの中にはそれぞれの生活に対する誠実さがあり、越えてきた歴史がある。それをふまえたいのは私で、だからこそ、担保すべきことがあって、でも突き抜けたい感情がある。

ーー

そんな葛藤とともに突き抜けたさきに、古い写真を集めたスライドショーの上映会はあった。
実際上映会をおこなって、そこは伝承の場だった。(もちろんまだまだ工夫しなければならないのだけれど...)
机の上では計り知れない現場の可能性。
現場には表現の発端があって、その発端は営みのしっぽのように感じている。

私たちは誰しもが暮らしている。
そうして、今此処に有る豊かさと知恵をいつかの誰かにぶるぶると振動のように伝えたい。
その手段は幾通りもあって、それぞれに愛おしい表現なのだと感じている。

だから、このことはずっと続けていこうとおもっている。
暮らしながら、自らの営みのしっぽの先の表現を追いかけたい。


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すだれを編む大祖母



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2012年09月18日

ユーグレナ

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ユーグレナ


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夕暮れの自分の身体からはみ出してしまいそうな感情


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うろおぼえの上野慶一さんの言葉を反芻させて


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泣き出しそうに緋くなる空と映す海を眺めに自転車を走らせる。


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ずっと海を越えたかったはすなのに、気がついたらまた島に居る。


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2012年09月09日

きがついたら9月

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気がついたら窓から見える田んぼの稲刈りが始まっていて。
土地に根付いた営みと剥離してしまっている自分は相変わらず変わらない、だけれども、4年前、レジデンスで滞在した神山では、ものすごく疎外感を感じたことを、なにか対岸の灯りのように眺める自分が居る。
なんというか、自分の土に着くやりかたを、言葉ではうまくいえないけれども引き当てている。



豊島のばあちゃんちで暮らし始めてもうすぐ1ヶ月。
はやいのか遅いのかわからないけど、なんだか暮らしていることは確かで。。
この土地について、
対話と思考と関係性と労働と興味と実現したい事

それらが境目なく日々常にある。


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ひとつの島が無人島でなくなるためには、
なるほど、単に人が住むだけではたりない。
島にかかわる人間の運動は、人間以前の島の運動をやり直す。
もしそれが本当だとしたら、人々は島に居着くことができるが、
そこはなお無人であり、なおいっそう無人になる。
(中略)
島にやって来る人間たちは現実に島に居着き、
そこに住民を増やす。
しかし、本当は、もし彼らが充分に分断され、
充分に創造的であるのなら、彼らはただ島に、
島自身についてのひとつの動的なイマージュを与えるだけだろう。
島を生み出した運動についてひとつの意識を与えるだけだろう。
その結果、島は人間をとおして、ついに無人の、
人家のない島として自意識を持つに至るだろう。

Gilles Deleuze /無人島の原因と理由より抜粋

posted by akirika at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 豊島

2012年08月21日

いきなりですが今は豊島にいます

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展覧会が終わった翌日に搬出をし、そのまま新幹線と船を乗り継いで西へ。
今は瀬戸内の島の豊島に居ます。
ばあちゃんが住んでいた家を片付けて、住み始めて一週間くらい。

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こっちでも、ちゃんと珈琲だけは飲めています。

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目的は今年の始めにたちあげた「てしまのまど」を始動させ、9月に催しをおこなうためではあるのですが、その先には私自身のこの島の事を感じ、自分自身の表現へと向かいたいという欲求が在るのだと思います。
歩いたり自転車に乗ったりして歩き、話しをし、ゆっくりと、此処の暮らしに耳を傾けている。
ときどき案の定、野菜をいただいたりして...

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夜になると、訪れた人のほとんどは船で島を去り、人の営みは静まり、そして虫や生き物や風の奏でるオーケストラが始まります。
その事で、否応なくここが島であることを感じ、そうしてそのことに自由な気持ちになったり、寂しくなったりしています。

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先日高校時代の同級生に多分卒業以来再会し美しすぎる夕日を見ながらいっていた言葉が、この島の人々の遠くを眺める視線に含まれる切なさのようなものと交差し、そうして私自身が今ひきあててしまっていることとも交ってしまった。
今、この島にたどり着いてしまっていることを、ゆっくり咀嚼しています。

。。。

てしまののまどの合宿は9月22日と23日を予定し、今プログラムを構築中です。
それぞれのこの島への視線からひらくまど、そのしまのことを見つめ、伝えることは、
どんな方法だってメディア=媒介でありえると思うのです。
島にはいろいろな事があります、いろいろな人が住んでいます。
そのままのことを、そのままの状態で、開きたい。
だって、此処に居る私はここのことも、そちらの事も、多分引き受けながら生活しているはず、知らない間に。
だったら知りたいし、知ってもらいたい、当たり前に。
そう思うのです。

posted by akirika at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 豊島
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