まちづくりのひとつのテクネーとしてアートが迎え入れられるとき、まちが求めているのは「作品」なのか「作家」なのか。
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日本のマニュファクチュアの基礎をつくったと言われる「古式捕鯨」の例をみてもわかるように、その体系は動きも思考も生理の違うさまざまな異質領域の間でつぎつぎに「接続」してゆくインターフェイスのつながりとしてできている。
舟を操る水夫の身体の動きは水中を猛スピードで泳いで行く鯨の動きに合わせてたくみに変化していく。
水中に飛び込んで鯨にしがみつく若者にいたっては、自分の存在のすべてを鯨の動きにゆだねてしまっている。
まず人間を鯨の間に柔軟に変化するインターフェイスを作り上げたうえでおもむろに鯨の動きを停止させていこうとする思考が優先されている。
そして髭の加工にいたるまでつぎつぎと性質の異なる行為を、互いの異質性を保ったままつないでいくインターフェイスの体系として、このマニュファクチュア体系はつくられている。
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性質の違う物を、単一の原理に無理矢理従わせて均質にならしてしまうのが「一神教的テクノロジー」のやり方であるとするならば、異質なものの異質性を保ったまま、お互いの間に適切なインターフェイス=接続様式を見いだすというこの列島で発達したやり方は「多神教的テクノロジー」と呼ぶことができるかもしれない。
テクノロジーはけっしてひとつではないのである。人間が頭で考えだしたプログラムに従って自然の側を制圧し、変化させてしまおうとするテクノロジーばかりではなく、自然の側からの反応や手応えを受けつつ、人間の行為の側を変化させてゆくことによって、人間と自然の対称的な関係にもとづく、対話の様式としてつくり出されるテクノロジーというのもある。
中沢新一 精霊の王より
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たとえばそれが「捕鯨」ではなく「アートでまちづくり」として置き換えてみる。
昨年の秋、神山にのこしてきた作品が春一番で壊れた。
壊れた作品はそのままで夏をむかえた。
少しの休暇を得た私は山へ向かい、土地と人々にぽつりとひとつの行動を起こした。
だれにどうねがいでたわけでもなく、ひとつの行動は、水の波紋のようにゆったりとしずかに当たり前に広がっていった。
ひとつの作品をめぐって。
それらはかけがえのない現象を起こし、関わったそれぞれの人たちの記憶に埋まってゆく。
これから先、このなつのことを忘れていったとしても。
I don't mind if you forget me.


「できるだけ多くの人がこの作品に関われることを」
私がこの作品に挑むとききめたことはそのこだった。
そのことに対して意義を申し立てる知人も居る。
それもひとつの関わり方だと私は思っている。
その問いは私への問いであって、おそらく自身への問いなのだと。
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もういちど
まちが求めているのは「作品」なのか「作家」なのか。
私は最終的に「作品」だと思っている。

ならば作家はどこへ行こう。
posted by akirika at 23:24|
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神山町